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藤色の庵の楽書帳 |2度目のオーストラリアへ

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2度目のオーストラリアへ

初めてオーストラリアの地を踏んだのは、1969年6月でした。 約1年の滞在で、ビザの取得が出来ず、不本意にも帰国せざるを得ませんでした。 21歳に成ったばかりで渡豪し、22歳で帰国と相成りました。 オーストラリアに行く前と帰国した後では、全く違う人間になった感じがしました。 それほどのカルチャーショックを受けました。 英語力も行く前と帰った後では、雲泥の差が出ていました。
若い時には、それほど脳も柔軟で、たった1年間に色んな事を吸収して良い経験をさせて貰いました。


帰国後私は、2回目の就職をし、1年後には、再度渡豪予定でしたが、中々貯まらないのがお金です。
アルバイトの積もりで何気に選んだ職場では、自分の中では、不満が膨れていくばかり。 1972年には、1年後には、アメリカに行くつもりで準備していましたが、直前になって、そちらが駄目になり、もうオーストラリアに行くしかなくなりました。 予定してなかった全員解雇 & 翌日再雇用と言う考えられないような事が起きたのです。 私には、渡りに船でした。 翌日再雇用を拒否して、仕事を辞め、渡豪の準備に取り掛かりました。

1973年3月末に辞職、4月中に引越し、5月10日の船で渡豪予定となりました。 その当時は、飛行機代が非常に高くて、貧乏旅行者は、船を使うのが通常でした。 その当時日本オーストラリア間の飛行機代は、片道18万円でした。 それでも、1969年当時には、船賃が往復で16万円だったのに、1973年には、片道が12万円位になっていました。 復路は、飛行機の切符を携えての船旅でした。
この船の選び方も実にいい加減で、友達がある日日本人向けの英字新聞に載っていた広告を持ってきてくれて、即座にそれに決めたのですから。 門司港を発ち西オーストラリアのフリーマントル到着、ノルウェー船籍の「ヤートルードバッケ号」、この船を選んだ決め手は、住んでいた山口県から近い北九州の門司港発だったからです。

4月末に荷物をまとめて、実家へ引越し、5月10日の出港に向けて準備を進めました。 今度は、2度目で、要領がわかっているので、そつなくやる事が出来ました。 1度目には、「気が違ったか!」と、母に大反対されましたが、25歳に成っていたし、2度目なので、何も言いませんでした。 但し親戚には、内緒で行くことになりました。 

5月8日に大きなトランクその他を門司港駅に向けてチッキで送り出し、9日には、岩国市内の友達の家に泊めてもらい門司港に出発の予定が、船会社から電話が入り (港湾ストの為、門司港には、寄港せず、横浜港からのみの出港になりました。)と、いとも簡単に言うでは、ありませんか! そんなぁ~! 私の荷物は、反対方向に向けてすでに出ていたのです。 出港も翌日に延びました。 仕方ないので、寝台車で、横浜まで行くことになり、門司港に行ってしまった荷物も横浜へ転送されるように手配して、10日の寝台車に乗りました。
9日夕方実家の母が、バス停まで見送りに来てくれ、私は、さも広島へでも行くような気分で母と別れました。
もう、何十年も前の事なのに、その光景は、目に焼きついています。 好き勝手な事ばかりする娘の行動は、母には、理解しがたかったかもしれないし、あきらめていたのかも知れません。

11日の朝、横浜に到着しましたが、イナカッペの私には、何が何やらサッパリわからず、ウロチョロするばかり。
船会社に電話を入れると、出港がまた延びて、いつになるかわからない、船も入港もしてないと言われ、マタマタ窮地に立たされてしまいました。 大荷物を受け取り、仕方が無いので、横浜駅の真横にあったホテルに部屋を取りました。 その当時1泊4千円でした。 手持ち金が減っていくのが不安でした。

12日に船会社に電話すると、船が入港しているので、乗船できると言われてどれだけ安堵した事か!
手続きのために会社の方に荷物を持ってくるようにと言われたので、タクシーで行きました。
自分の乗る船がノルウェー船という事は、百も承知だし、ノルウェーがどこにあるかも知っていたけれど、興味の対象外でした。 乗船するに当たって初めてノルウェーについて「エッ!ノルウェーって、どんな国だろう?」と、成ったのですから、なんとも呑気な話です。

船会社の人が私(お客)と、船の乗組員のノルウェー人男性をタクシーで(ヤートルードバッケ号)まで、連れてってくれました。 本牧の港にその船は、停泊してました。 タラップを上っていく時は、かなり興奮してました。
入り口のところで、制服に身を包んだチーフスチュワードのウィルヘルムが「ヤートルードバッケ号にようこそ」と、出迎えて私の船室までエスコートしてくれました。
最初の渡豪の際の船旅は、船底近くで4人の相部屋でしたが、今度は、同じ貨客船ながらも、浴室トイレつきの個室です。 

貨客船ですから、大半が貨物です。 乗客は、私を入れて12名、日本人は、私一人でした。 他の11名は、オーストラリアのリタイア世代の夫婦が、5組と奥さんを亡くされていた男性1人。 その日から、約1ヶ月の船上生活の始まりです。

                           (続く)

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コメント

[C520]

二度目のオーストラリア
今度もいろんな困難が待っていたんだね
門司出発の予定が横浜に
荷物は反対方向へ
ほんとに不安になったと思うわ
私はとてもできそうにない
フジちゃんの行動力はすごいといつも思います
今度の船の旅は日本人が一人だし同じ年頃の子も
いなくて心細かったのでは
でも初めてでないからよかったね

[C521]

☆アンさん
行きたい一心で、若かったから、困難もそれ程苦には、成らなかったのかも知れません。
それでも、スムースに行かないと(アレレ~、又かいな)でしたけどね。

船のお年寄りに取って私は、孫みたいなもの。面白みは、なかったけど、平和でした。それよりもノルウェー人の船員さんたちと(女性もいた)仲良くなり、ゲームなどして遊びました。
  • 2009-01-16 16:24
  • 藤色のアン
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  • 編集

[C522]

アンさんの行動にはなんでかアクシデントが付いてまわっていますね。

兎に角・・貴女は凄い!・・なのに歳のせいか去年の国内関東旅行の時はけっこう慎重だったようですよ。v-411

きっとアンさんが書いているようにお母さんは心配というより変わった理解しがたい娘と思っていたに違いありません。現代だったらあたりまえのように外国へいきますけれどその時代・・私なんて国内旅行だって行かせてもらえませんでしたからね~。

でもそんな素晴らしくたくましい経験をしたとは思えない素朴さも持ち合わせているところが私は大好きです。

[C523]

☆mimakaさん
今日は、キルトフェスティバルお疲れ様でした~。期待通りでしたか? 今朝は、東京は、相当冷えたみたいですね。

mimakaさん、私は、外国より東京の方が恐いのです。外国は、交通機関がシンプルなので、方向などがわかれば、何とか成ります。スイスでは、レマンにスイス人の女の子と行ったのですが、彼女が迷いまくってました。私は、外国の電車とかは、コツがつかめていてスイスイでした。

昔、私も家族と一緒に住んでいた時は、自由にならなくて嫌なので早くに家を出たのもあります。
昔から鎖につながれるのが嫌だったのね。今は、長~いゴムひもにつながれています。ゴムひもが伸びる程度の自由があります(アハ)。
  • 2009-01-16 19:30
  • 藤色のアン
  • URL
  • 編集

[C524]

藤さんの行動力にはいつも圧倒されます。

今でこそ多くの人が訪れるオーストラリアも、当時は遠ぉ~い国でしたよね。
たいていは夢で終わるところを実行に移すところが凄いね。

藤さんは好奇心・行動力・自立心どれも◎だね。

[C525]

☆こまははさん
普通の人が海外旅行出来る様になって数年後だったのですが、シドニー市内は、(犬も歩けば、棒に当たる)状態に数歩歩けば、日本人観光客、それも若い人たちを見かけましたから、日本全国では、私と同じような考えの人が相当数居たんでしょうね。 ただ、大抵の人たちが、日本人同士で固まって行動してたようです。
何せB型の私は、そう言うグループとは、別行動と言うか自分の世界にひたっていましたね。
それも、M子さんと言う親代わりの方がいらしたから、安心していられたのでしょう。
  • 2009-01-19 00:21
  • 藤色のアン
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藤色の庵

Author:藤色の庵
山口県東部地方在住。 手作り大好きは、祖母、母からDNAをしっかり引き継いでいます。
8月に仕事を辞め自由人になり、体力低下と闘いながら手作りを楽しんでいます。時々農婦も・・・

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